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広徳寺 (練馬区) : ミニ英和和英辞書
広徳寺 (練馬区)[こうとくじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
: [く]
 【名詞】 1. ward 2. district 3. section 

広徳寺 (練馬区) : ウィキペディア日本語版
広徳寺 (練馬区)[こうとくじ]

広徳寺(こうとくじ) は、東京都練馬区桜台六丁目にある、臨済宗大徳寺派寺院。山号は円満山。
== 歴史 ==
戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の三男で、岩槻城主であった太田源五郎小田原明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。なお、太田源五郎は、かつては太田氏房と同一人物であるとされていたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏織田氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。その広さは大田南畝狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷鬼子母神」などと並んで知られている。
大正12年(1923年)の関東大震災により、寺域はほぼ焼失。その2年後の区画整理で現在の練馬区に墓地のみを移転し別院とした。その後昭和46年(1971年)には本坊も練馬に移転し、現在の形となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「広徳寺 (練馬区)」の詳細全文を読む




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